「生徒が授業中どれだけ集中しているか」手首にリストバンドで脈拍データ化。これって本気ですか?【西岡正樹】
「いま学校で起きていること」のすべては大人社会の縮図である
◼️数値化されたデータで分かった気になる大人の浅はかさ
授業中、子どもたちの気持ちは一定ではない。だから、集中の度合いも時間の経過によって変わってくるし、集中できる(オン)時間帯もあれば、集中できない(オフ)時間帯も当然ある。「自分の集中力が切れたな」と自覚している子どもは、その「オン」「オフ」を自分の力で切り替えることができるし、自覚していない子どもでも、先生の声掛けや隣に座る仲間の声掛け、そしてグループの仲間との関りによって切り替えることがある。教室はみんなで学ぶ場だから、自分の力でなくても、他者との関りで切り替えられるのだ。
子どもが授業へ主体的に関われるように、教師は授業を創っている。(現指導要領が求めているのは、主体的対話的な深い学びだ)それを実践する為には、当然のことながら教師と子どもは主体的に授業と関わらなければならないし、さらに「教師と子ども」、「子どもと子ども」はきちんと向かい合うことを求められる。授業の流れの中で、主体と主体が絡み合い、そして化学反応が起き、教師の創造を越えた学びが生まれることがよくあるのだ。それこそが授業の醍醐味であり、教師の喜びでもある。
「授業中の子どもの集中度をデータ化しリアルタイムで把握できる」というシステムをある中学校で稼働していると聞いた。生徒は手首にリストバンドを着け、その装置は生徒の脈拍を感知する。脈拍によって集中度が割り出される仕組みのようだが、このシステムを導入しようとする意図が私には理解できない。何故なら、前述したように、授業は主体と主体が直接的に関り絡まり合うことで、子どもの学びが生まれ、教師の喜びも生まれると考えているからだ。そこにデータの入り込む余地はない。
目の前にいる子どもを見ずに、数値化されたデータに映し出されている抽象化された子どもを見ていては、子どもの姿から感じ取れる「その子の今」をくみ取ることはできない。数値化され、折れ線グラフの中に映し出された「集中していない」値は、何かの理由があり、時折伏し目がちな、何かに悩んでいる子どもの姿を明らかにしてはくれないのだ。